コラム記事

マレーシアは親日国家?マレーシアと日本の関係と交流を振り返る

「マレーシアは親日国家である」・・・マレーシアに関するガイドブックや情報ウェブサイトで、このような記述を見かける機会は多いのではないでしょうか。

2023年にコンサルティング会社の行った親日度調査では、日本について「大好き」と「好き」を合わせたマレーシア人の回答は94.2%にも上るという結果が出たそうです。

マレーシアを訪れたことがある方は、この結果に大きくうなずく方も多いでしょう。

戦後、マレーシアと日本の間では主に政財界主導で多様な交流と連携が行われてきました。その過程で培われてきた関係性は、今日の「親日国家マレーシア」というイメージに一役買っているのです。今回の記事では、両国の関係が深まったその背景について解説をします。

外交関係の樹立

マレーシアの前身となるマラヤ連邦がイギリスから独立を果たした1957年8月31日のまさに同日、日本はマラヤ連邦と外交関係を樹立した最初の国となりました 。クアラルンプールの日本大使館も、同年9月9日に速やかに開設されています。

生まれたばかりのマラヤ連邦と、戦後統治から復帰間もない日本がこれだけ迅速に外交関係を結べた背景には、冷戦下のアメリカが「西側」諸国同士の結びつきを強めたいという思惑も絡んでいたといわれていますが、太平洋戦争の暗い歴史を乗り越え、両国は早い時期に新しい外交時代を迎えることができました。

ルックイースト政策

中学・高校の歴史の授業で「ルックイースト政策」という言葉を知った方も多いことでしょう。マレーシアといえばこの単語を連想する方もいらっしゃるかもしれません。マレーシアと日本のユニークな関係性を象徴するキーワードです。

ルックイースト政策(ルックイースト・ポリシー、あるいは東方政策)は、1981年に当時のマハティール首相によって提唱されました。

東方の国々(日本・韓国)が第二次世界大戦や朝鮮戦争の戦禍の荒廃から急速に復興し近代化を果たした理由は、学習・労働意欲や勤勉さ、道徳倫理観、経営能力・思想などにあるとし、それらの国々を手本にし自国の発展を図るという政策です。

当時、旧宗主国イギリスから影響を受けた西洋的価値観の中には複合民族国家であるマレーシアをまとめていくにはそぐわない強い個人主義もあり、マハティール首相はその価値観を克服すべく、集団尊重の規範を日本・韓国に求めたとも言われます。

マハティール首相の提唱からもうすぐ半世紀。マレーシアは目覚ましい経済成長を遂げて両国を取り巻く環境も変化していますが、ルックイースト政策は現在も継続しています。

日本への留学生

ルックイースト政策を支える大きな柱の一つは、大学・高等専門学校への留学生および高い産業技術や経営幹部実務を学ぶ職業人の日本への派遣です。

特定の国への偏重や欧米軽視ではとの批判も上がる中、マハティール首相は提言の翌年には三男のムクリズ氏を日本に留学させ、この政策にかける意気込みを自らの行動でも示しました。

マレーシア政府主導の政策ですが、日本もまたその政策に呼応し留学生の受け入れに協力してきました。費用面でのODA拠出 、また日本での学習と暮らしをスムーズに始められるよう、マレーシアでの準備期間の日本語教育には日本政府もサポートしています。 

2022年までに、累計26,000人 を超える留学生や研修生が日本に派遣されました。元より優秀な成績で選考を勝ち抜いている彼らですから、マレーシアに帰国後は日本から持ち帰った知識や技術をもって活躍し、また高い日本語力をもってさまざまな分野で両国の架け橋となってくれていることでしょう。

日系企業の進出、産業連携

ルックイースト政策のもう一つの柱は、日本との経済協力、産業の連携です。留学生や研修生を派遣すると同時に、日本からの技術移転や投資プロジェクトを直接呼び込みました。

同時期に、外資導入を進める政府の方針として輸出比率の高い外国企業には出資制限の緩和や税制の優遇が行われ、1985年のプラザ合意による急激な円高が追い風にもなり、この時期日系工場の進出が加速しました。

2つの国産車

マレーシアは、東南アジアで唯一国産ブランド車を保有する国だということをご存じでしょうか。実はその歴史には日本が大きく関与しています。

当時マハティール首相は、マレーシアを工業国に成長させる柱として自国ブランドの自動車を生産するという「国産車構想」を提唱しましたが、その構想の視線もまたイースト、東を向いていました。

1983年に初の国産自動車メーカーとして政府のバックアップのもと設立された「Proton」(プロトン)。設立当時は日本の三菱自動車と三菱商事が出資に参加した合弁会社でした。1985年に、三菱のモデル「ランサー」をベースに開発された国産車第一号モデル「プロトン・サガ」が誕生します。その後、国産車プロトンは政府の保護もありシェアを伸ばしていきました。(現在はその育ての親、三菱自動車とは業務提携を終了しています。)

そして1993年、マレーシアの第二の国産車メーカー「Perodua」(プロドゥア)が誕生しました。プロドゥア社にも日本からダイハツ工業と三井物産が資本に参加し、ダイハツ車をベースに多くのモデルが開発・販売されています。スモールカー路線がマレーシア国民に受け入れられ、大躍進をしました。

またプロトン社も2015年に日本のスズキ自動車と業務提携し、スモールカー路線でプロドゥアに真っ向勝負。車好きの方なら、マレーシアの街角で日本の軽自動車の気配をあちこちに感じるに違いありません。

日本が貢献した「作品」

マレーシアが成長を推し進める過程で建設された主要な建築物の中には、日本企業や日本人がプロジェクトに関わったものがあります。

ペトロナス・ツインタワー

首都クアラルンプールを代表する建築物といえば、ペトロナス・ツインタワーではないでしょうか。1992年に建設開始、1998年に完成したこの高層ビルはイスラム教のモスクにドームと併せて建設されるミナレットと呼ばれる尖塔をモチーフとしています。銀色に輝くSF的とも思えるデザインのビルは双子の二塔で構成されていますが、その片方のタワー1を日本の建設会社であるハザマ(現:安藤ハザマ)が施工しました。

クアラルンプール国際空港(KLIA)

1998年に開港したクアラルンプール国際空港(KLIA)は、「森の中の空港、空港の中の森」をコンセプトに、日本を代表する建築家の一人である故・黒川紀章氏が全体像を設計しました。空港のメインターミナル・シャトルで移動するサテライトはどちらも日本の建設会社の施工です。

KLセントラル駅

2001年、コロニアルな建物の旧駅舎から中央駅機能を移転したKLセントラル駅が開業しました。KTMと呼ばれるマレーシア国鉄・Rapid KLという都市交通路線・空港直通特急が発着し、モノレールにも接続が可能なクアラルンプールのハブ駅ですが、この駅もまたKLIAと同じく故・黒川紀章氏の設計です。

シャーアラムの盆踊り大会

日馬交流の歴史を象徴する行事をご紹介します。

クアラルンプールの西隣、セランゴール州の州都シャーアラムに日系企業の工場も多く集まる工業地帯があります。その工業地帯の一角にある国営スポーツ施設のシャーアラムスポーツコンプレックス(Kompleks Sukan Negara Shah Alam)では、毎年盛大な盆踊り大会が開催されています。

歴史を遡ること1977年。もとは当時の日本人駐在員たちが子供たちに日本文化に接してほしいという思いから、日本人学校を中心に始めた小さなイベントでした。その後徐々に地元の方々も参加するようになり、今や毎年30,000人を超える参加者が会場を訪れる日馬交流の一大イベントとして定着しました。開催の様子は現地のニュースでも報じられます。

その規模は日本国外で開催される盆踊り行事としては世界最大級で、コロナ禍を経て3年ぶりの開催となった2022年の来場者は約50,000人にものぼったと言われています。

まとめ

旅の情報を書籍のガイドブックで得るしかなかった2000年代初頭まで、家族や友人と行く東南アジア旅行といえばシンガポールやタイがメジャーであり、マレーシアは個人旅行先としてはまだマニアックな存在でした。

個人があまり注目をしていなかったその間に、既に日馬の政財界では先述のように両国間の太い繋がりを着々と築いてきました。

やがてスマートフォンやSNSなどの普及で旅の情報入手が容易になり、LCCの台頭が起爆剤となってマレーシアは人気の旅先となりました。2002年にスタートしたロングステイビザMM2Hがメディアにも頻繁に取り上げられたりと、マレーシアは住みやすい国というイメージが急速に広まったのです。

現在マレーシアの人たちが日本人に向けてくれる優しさと日本への理解の背景には、今回ご紹介したような約半世紀にわたる堅実な交流の歴史があることを覚えておきたいものです。

最後までお読みいただきありがとうございました。

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