コラム記事

中華系マレーシア人の歴史といま

地理的、そして歴史的要因が絡み合いながら多民族が暮らす国となったマレーシア。特にマレー半島は中国大陸やインドから多くの移民を迎えた歴史があり、現在では中華系マレーシア人はおおまかに人口構成の1/4を占めています。

初めてマレーシアを訪れた方は、マレーシアの風景の中に中華系の気配の濃さを感じられることでしょう。地方の小都市であっても大なり小なりチャイナタウンは必ず見られますし、プランテーションの中の小さな集落にも漢字の看板を見つけることができます。

今回はその中華系マレーシア人について、マレーシアが歩んできた歴史とともにひも解いていきます。

華僑渡来と定住の歴史

まず華僑とは。ある種の浪漫も感じさせる「華僑」という言葉は居住国の国籍を持たない人々を意味し、時として進出意欲が旺盛で商才に長けた中国商人を示す言葉としても使われています。

一方、居住国の国籍を持つ人々は「華人」と呼ばれ、中華系マレーシア人は国籍を有するれっきとしたマレーシア国民。現地では馬華人・大馬華人(マレーシア華人)という表記が見られます。

では、彼らはいつ頃中国大陸を離れ、なぜ故郷に帰らずマレーシアに定住するに至ったか、歴史を振り返ってみましょう。

マラッカ王国時代

中国大陸とマレー半島の交易が本格化したのはマラッカ王国時代。明王朝への朝貢貿易が始まり、幾度もの大遠征で知られる明の海軍大将鄭和は、その途上で何度もマラッカを訪れています。海峡に面したマラッカは貿易中継地として様々な貿易と文化が流入し、急成長。この時代に中国大陸から多くの移民がマレー半島に渡ったとされています。

16世紀になるとマラッカ王国はポルトガルの侵攻を受け、その後ヨーロッパ諸国による支配の歴史が続きますが、大陸からの華僑は中国大陸には戻らず、現在のマレーシアや周辺国へと活躍の場を広げていきました。

王国の面影を残す世界遺産の古都マラッカには、1645年建立の青雲亭というマレーシア最古の中国寺院があります。境内にそびえる二本の塔はマレー半島へ最初にやってきた移民の船についていたマストと同じ高さで、再び故郷の地を踏むことはないという決意の表れとして立てた、という言い伝えがあります。

プラナカン

マラッカ王国時代に中国大陸から来た人々の中には、現地のマレー人女性との婚姻により土着化した人々がいました。彼らの子孫の男性はババ、女性はニョニャと呼ばれ、総合してプラナカンと呼ばれます。

お隣シンガポールでの調査ですが、シンガポール科学技術研究庁ゲノム研究所が2021年に行ったDNAの検査では、177名のプラナカンの方々にマレー人(主として女性)のDNAが5.62%受け継がれているとの興味深い結果が出たそうです。

彼らが中国大陸から持ち込んだ自身の華人文化に現地のマレー・イスラム文化が融合し、プラナカンという新たな文化が形成されました。

プラナカン文化を代表するものとしてよく知られているのは、中華とマレーの融合であるプラナカン料理(ニョニャ料理)。また、豪商も多く輩出したプラナカンの邸宅は華やかな装飾とパステルカラーのタイルに彩られ、陶器やビーズ刺繍など華人文化ともマレー人文化とも異なる独自の進化を遂げました。

現在も民族的にはチャイニーズながらアイデンティティはプラナカンという血族集団は多く存在しています。彼らの大枠は華人文化や習慣の枠組みの中にありながら、プラナカン特有の文化も守っています。特にマラッカ・ペナンのジョージタウン、シンガポール、そしてタイのプーケット島の一部などでは、今も脈々と受け継がれたプラナカンの文化に触れることができます。

英国統治下の移民

マラッカ王国の支配者はポルトガル、スペインからイギリスへと変遷していきました。

イギリスは東インド会社の設立を端緒に19世紀を通してじわじわと台頭し、19世紀終盤から20世紀初頭にかけて現在のマレーシアの全域を掌握します。そして、マレーシアの隅々にまで華人が移り住むようになったのはこの時期です。

アヘン戦争後に締結された北京条約により、清朝は自国民が海外へ渡航することを解禁。一方のイギリスは拡大する植民地の開発に大量の労働力を必要としていたため、中国大陸からの移民の需要は高く、大勢の華人がマレー半島へ移り住みました。当初は錫鉱山やゴムプランテーションの労働者としての男性移民が多かったものの、やがて本国の情勢の変化もあり女性の移民も増え、各地に定住をする華人コミュニティが形成されていきました。

華僑・華人の多い地域ならどの国でも見られる同郷会館・同族会館と呼ばれる建物があり、ここマレーシアでも各地にその姿を確認できます。同じ地域出身・名字の一族が相互扶助のために組織した組合会館で、寄り合いや相談事が行われたり、共通に信仰する神様を祀る祭壇があるなど心のよりどころとなってきました。海外留学の奨学金をサポートする場合もあったそうで、華人の地縁そして血縁の重さがうかがえます。

独立とプミプトラ政策、共生の模索

1957年にマラヤ連邦が独立、1963年にボルネオとシンガポールが合流しマレーシアが成立します。(その後1965年にシンガポールは分離独立) 独立直後のマレーシアは基本的には融合路線で、第二次世界大戦中は抗日、そして大戦後はイギリスからの独立を共闘して成し遂げたマレー人・華人・インド系マレーシア人は、独立当初は連立政権として国政を担っていました。

しかしこの融和的な政権の下で民族間に徐々に亀裂が出始めます。そして、1969年5月の総選挙で先進的な野党が躍進したことをきっかけに衝突が発生。5月13日事件と呼ばれるこの暴動はマレーシア建国以来最悪の民族衝突事件として歴史に刻まれることとなってしまいました。

華人住民が多数派のシンガポールは既にマレーシアから分離独立しており、この5月13日事件を経てマレーシア政府の出した答えは、マレー人の地位向上でした。その国策の総称が、日本の教科書にも登場する「ブミプトラ政策」です。

この政策については長年に渡って国内外から様々な声があることは確かですが、5月13日事件以来、マレーシアではこれほどの規模の衝突や暴動は起きていません。時折先鋭化した市民団体がデモなどで意思表示を行い、大規模なデモの際には大使館から日本人に注意喚起が行われることもありますが、これらについては単純な民族対立の構図とは少し異なり、根深い問題を解決できない現政府への批判など複合要素が絡みます。

中華系マレーシア人のいまとこれから

ブミプトラ政策は以前と比較すると緩和の方向ではあるものの現在も継続しており、国立大学の入学枠や公務員枠において民族によって与えられる枠の数に差があることはよく知られています。

その一方で少数派である中華系のGDPは、多数派のマレー系のGDPを今なお上回っている現実があり、民族間経済格差も以前に比べると縮まってはいるものの、是正という目標の達成には到達できていません。

上記のような事情は人々の感情面にも色濃く表れ、例えばマレーシア国籍同士での民族を超えた婚姻はレアケースであることはその代表的な例とも言えるでしょう。それぞれの民族の宗教や生活様式は大きく異なるため、日々の暮らしで密に混ざり合うことは簡単ではありません。

生まれた時からマレーシアで暮らしている彼らはその点を暗黙のうちに理解していて、お互いに緩く距離を置きながら、それでも隣人として同じ町内で良好な関係を維持しながら暮らしています。

まとめ

今回はマレーシアで華人が歩んできた歴史、そして彼らが現在どのような立ち位置にあるのかについてご紹介しました。

緩く距離を置きながらと先述はしているものの、例えばエンターテインメントの世界では民族を超えたアーティストが一緒にパフォーマンスをしたり、また数は多くないものの両民族を取り上げた映画も製作されたりもしています。

マレーシアを語る上でこの民族についての解決すべき課題は多く、そしてそれぞれの不満や不平等さが解消されたわけではないという現実は確かにあります。しかしながら、世界中に民族対立や国家分断の火花が散り人命が失われる現代において、奇跡的なバランスを保っている平穏な国家の一つであると言えるでしょう。

最後までお読みいただきありがとうございました。

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